極楽寺(ごくらくじ)ヒビキ遺跡
- [公開日:2025年11月6日]
- ID:4379
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極楽寺ヒビキ遺跡全景(南西から)
(奈良県立橿原考古学研究所提供)
南郷遺跡群(なんごういせきぐん)の南西隅、金剛山(こんごうさん)東麓から東へと延びる尾根上の標高約240m地点に位置する、古墳時代中期(5世紀中ごろ)の遺跡です。
両岸斜面に石積みを施した、幅約13mの濠によって区画された敷地内に、大小の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や塀、広場が方位を揃えて配置され、濠内部の区画へは、渡り堤によって出入りできるようになっていました。
中心となる建物は、約13m四方の大型掘立柱建物です。建物の西側と南側に塀が設けられ、外からの視線を厳重に遮る造りとなっていました。この建物に用いられた柱は断面が長方形の板状の柱で、当時多く用いられたのが円柱状の柱であることを考えると、非常に特殊な構造のものでした。
興味深いのは、この大型掘立柱建物と柱の形や構造がよく似た家形埴輪が、極楽寺ヒビキ遺跡の北東約3Kmの場所に位置する、宮山(みややま)古墳(御所市室(むろ))から出土している点です。宮山古墳は、古墳時代中期(5世紀初め)に築造された墳長245mの前方後円墳で、古代豪族葛城氏の首長である、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の墓であると考えられています。宮山古墳は極楽寺ヒビキ遺跡よりも若干先行する時期のものですが、両遺跡の間に何らかの関係性があったことをうかがわせます。
極楽寺ヒビキ遺跡の渡り堤付近からは、須恵器(すえき)や土師器(はじき)が出土しています。日常生活に用いられた土器よりも、高坏(たかつき)などの供膳具(きょうぜんぐ)が多いことが特徴です。特殊な構造をもつ大型掘立柱建物の存在と出土遺物の内容から、極楽寺ヒビキ遺跡は日常生活の場ではなく、祭祀や政治を行った公的な場であったと考えられています。
情報
- 住所
御所市極楽寺 - 電話
- - 駐車場
無 - トイレ
無 - HP
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