寛保二年御所町検地関係文書
- [公開日:2024年6月12日]
- ID:3996
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寛保二年御所町検地関係文書(かんぽにねんごせまちけんちかんけいもんじょ)の概要と御所町について
御所市指定文化財第8号
種類:歴史資料
所蔵:御所市教育委員会(一部個人蔵)
指定年月日:令和6年4月26日
寛保2年(1742)に大和国幕領の一部において実施された検地に関する資料で、代々庄屋や年寄を務めた家々で大切に保管されてきました。
御所町は、葛城川東西に跨る町場とその周辺に田畑が広がる在郷町です。町場とは、人家や商家が集住する市街地のことで、御所町の町場は、葛城川より東側の円照寺を中心とする「東御所」と、西側の商業町の「西御所」で構成されます。
この町場は、江戸時代の初頭に初代御所藩主の桑山元晴が整備したと伝わります。しかし、元文5年(1740)に、通称「御所流れ」と呼ばれる葛城川の洪水によって、西御所の大半が流されてしまったため、御所町の歴史を伝える古文書が失われてしまいました。そのため、実際のところ御所町の町場がどのようにつくられたのかを知ることはできません。
そこで、御所町の町場形成を知る上で鍵となるのが、『大和国葛上郡御所町御検地用集(やまとのくにかつじょうぐんごせまちごけんちようしゅう)』(以下、『検地用集』)です。この文書は、御所流れの2年後に実施された検地についてまとめたもので、検地の経緯や御所町の建物や田畑の詳細情報が記されています。また、この『検地用集』とセットで作成された絵図が4点現存しており、当時の御所町と町場の様相を視覚的に知ることができます。
御所町の位置
寛保2年の検地について
検地とは、農業生産高を調べるための田畑面積、石高(収穫高)調査のことで、16世紀末に豊臣秀吉によって全国的に実施された太閤検地が有名です。江戸幕府開府後は、この太閤検地の調査結果を基準に年貢が徴収されていましたが、江戸時代になると新田開発が進んだことにより農業生産力が上昇したため、太閤検地の石高は実態とはかけ離れた数字となりました。そのため、正確な石高を知るために新たに検地が実施されました。
大和国では、幕府領を対象として延宝5年(1677)から6年にかけて検地が実施され、正確な石高に更新されています。しかし、御所町をはじめとする一部の地域では、新たに検地を実施することなく見計らいで新しい石高を決めていました。この行為を無地増高(むじましだか)と呼びます。御所町の場合(当時は幕府領)は、寛永10年(1633)に10割4毛、つまり約2倍の無地増高が実施されてしまいました。しかし、急に2倍の年貢を払うことは現実的ではないため、実際は元の石高を基準に年貢が徴収されました。
寛保2年(1742)、新しく検地を受けた地域と、無地増高が実施された地域との間で年貢の徴収額に不公平が生じているとして、幕府によって検地が実施され、御所町もその対象となりました。検地は、その年の3月上旬から6月末にかけて実施され、検地終了から1年後に新しい検地帳が配布されました。
寛保2年の検地と御所町の石高の推移
大和国葛上郡御所町御検地用集(やまとのくにかつじょうぐんごせまちごけんちようしゅう)
『検地用集』は、寛保二年の検地の際に作成された文書を書写して、冊子としてまとめたもので、建物が県指定文化財になっている赤塚家で大切に保管されてきました。上下2巻から成り、慶応2年(1866)6月に当時の赤塚家の当主赤塚吉兵衛によって新調された「御検地用集帖(ごけんちようしゅうちょう)」箱に納められています。
『検地用集』には、検地の準備から終了に至るまでの関係資料が時系列順に記されています。検地の準備関係の書類や検地奉行や周辺地域とのやり取り、検地終了後の事後処理関係の内容が収められており、検地についてこれほど詳しくまとめられたケースは、全国的に数少なく、珠玉の記録と言うことができます。
大和国葛上郡御所町御検地用集
附「御検地用集帖」箱
御所村絵図(ごせむらえず)
『検地用集』には、検地を実施するにあたって、検地奉行より「村絵図」、「地引(じびき)絵図」の作成が命じられたことが記されています。それらの絵図は、御所町と地続きの村々に所在する飛入・飛出田畑を示すために作成されました。飛入田畑とは、御所町内にある他の村の住人が所有する田畑で、飛出田畑とは、御所町の住人が他の村で所有する田畑のことです。御所町周辺地域には、そうした飛入・飛出田畑が少なからず存在したため、検地の過程でトラブルが発生しないようにするために作成されました。
「村絵図」と呼ばれる本絵図は、近隣村々11 ヶ村と御所町の飛入・飛出田畑を一見してわかるように一筆ごとに描いています。御所町に所在する飛入田畑は、各村の色で塗り、他の村にある飛出田畑は無色としています。それ以外にも寺社や山々、溜池・湧水などの周辺環境も描かれており、当時の御所町周辺の様相を知ることができます。
御所村絵図
御所村方地引絵図(ごせむらかたじびきえず)
地引絵図とは、田畑一筆ごとに番号を付けて土地情報や所有者を記した絵図のことです。「御所村絵図」の項目で説明した通り、検地に際して「村絵図」と「地引絵図」の作成が命じられました。御所町の場合は、田畑と町場がはっきりと分かれていたため、田畑部分を「村方」、町場部分を「町並屋鋪(まちなみやしき)」として2枚の地引絵図を作成しました。
「村方」部分にあたる本絵図は、町場以外の田畑を示す目的で作成され、村方部分の田畑と他の村にある御所町の飛出田畑を一筆ごとに番号を付けて黄色で色塗りをしています。絵図面の溜池・湧水の部分には、御所町が他村の溜池・湧水を使用するために使用料を納めていることが記されており、他地域との関係性を知ることができます。例えば、倶尸羅(くじら)村の溜池を使用するために、御所町が毎年米七石五斗を納めることが記されています。
御所村方地引絵図
御所町並屋鋪地引絵図(ごせまちなみやしきじびきえず)
本絵図は町場内を描いた「町並屋鋪」の地引絵図です。田畑・屋敷を一筆ごとに番号をつけて黄色で色塗をりし、面積と所有者の名前を記しています。また、道路は赤色、川と水路を水色で色塗りをしており、道路部分には道路の名称と道幅を記しており、非常に詳細に作成されたものであると分かります。
絵図を詳しく見ると、御所町は、碁盤の目状に道路が敷かれ、家々の間には背割下水が通り、環濠や遠見遮断などの防衛のための仕掛けがある計画的に整備された町場であることが分かります。これらの仕掛けは、現在でも殆ど変わることなく残されており、この絵図を見ながらでもまち歩きをすることができます。
御所町並屋鋪地引絵図
御所町並屋鋪地引絵図(個人蔵)