|
|
 |
|
|
「古事記」や「日本書紀」によると、葛城氏と巨勢氏はともに御所市域を本拠とした大和朝廷の時代の豪族で、天皇家の外戚・大臣として権勢を誇っていました。
4、5世紀を中心に活躍した葛城氏の中でも、葛城襲津彦(そつひこ)の功績がもっとも多く伝えられています。襲津彦は仁徳天皇の皇后となった磐之媛(いわのひめ)の父にあたる人物で、朝鮮半島の戦で数々の武勲をあげました。そのときにその国人を連れて帰り、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしみ)の4邑に住まわせて、当時の最新技術を取り入れた鉄製品などをつくらせたと伝えられています。
室宮山古墳(国史跡)は、当時の天皇陵墓にも比肩する全長238メートルもの大きさを誇る前方後円墳で、襲津彦の墓の有力な候補といわれています。また、その規模以外にも「王の柩」とされる長持形石棺を竪穴式石室に安置されたままの状態で見学することができる全国で唯一の例として大変貴重な古墳です。
6世紀のはじめ、武烈天皇は世継ぎに恵まれず、血統断絶の危機を迎えます。結局、応神天皇の5代のちの孫で、現在の北陸地方にいたとされる継体(けいたい)天皇が擁立されることになります。
その継体天皇の擁立を強力に押し進めた人物のひとりが巨勢男人(こせのおひと)であり、継体天皇の即位を契機に巨勢氏の権勢は大きくなり、絶頂期を迎えます。
人物名こそ特定はできないのですが、大字古瀬ほかには当時の巨勢氏の首長の墓とみられる大規模な横穴式石室を持つ古墳がたくさん残されており、樋野権現堂古墳(県史跡)→新宮山古墳(県史跡)→條ウル神古墳→水泥北古墳(国史跡)→水泥南古墳(国史跡)の順に系譜を追うことができます。なかでも、最大級の横穴式石室がみつかった條ウル神古墳が注目され、また、水泥南古墳の蓮華文(ハスの花)を刻んだ石棺は、仏教文化と旧来の古墳文化の融合を示す最古の事例として広く知られています。
このように、葛城氏と巨勢氏は時代の潮流をいち早くとらえ、権勢を誇った巨大豪族でした。御所市域にはこのほかにも、数多くの遺跡が残されており、当時を偲ぶことができます。
|
|
|
|
 |
|