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御所市指定文化財

[2017年3月9日]

ID:1352

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御所市指定文化財一覧

御所市指定文化財
指定 分類 指定年月日名称 員数 所有者または
管理者(所在地) 
第1号 歴史資料 平成9年3月25日
 (1997.3.25)
 草場権関係文書一括 五点 水平社博物館
 (大字 柏原)
第2号 歴史資料 平成18年4月1日
 (2006.4.1)
 文政十三年おかげ参り施行関係文書 二九点 御所市教育委員会
第3号 建造物  平成15年6月1日
 (2003.6.1)
 八幡神社 本殿
  同 摂社 天児屋根命社 本殿
  同 摂社 天照皇大神社 本殿
 一棟
 一棟
 一棟
 伏見八幡神社
 (大字 伏見)
第4号 建造物 平成15年6月1日
 (2003.6.1)
 鴨都波神社 本殿 一棟 鴨都波神社
 (御所)
第5号 天然記念物  平成26年11月28日
 (2014.11.28)
 葛城山のギフチョウ 不定 個人
 (葛城山、大字 櫛羅ほか)
第6号 無形民俗文化財 平成26年11月28日
 (2014.11.28)
 蛇穴の蛇曳き汁掛け祭り
 附 木造龍像
  嘉永七年銘『野口大明神社記』
  明治六から壱九年銘
   『野口社祭礼旧式』
  明治二八から三八年銘
   『野口神社祭典式并二什宝帳』
  昭和八年銘「野口神社祭礼書類箱」

一件
一点
一点

一点

一点
一点

 蛇穴区長
 (大字 蛇穴)
第7号 歴史資料

平成29年3月1日
 (2017.3.1)

吉村虎太郎の襯衣(したぎ)(肌襦袢)
 附 徳富蘇峰 筆「吉村重郷 襯衣 盡忠報國」
極め箱

一点
一点

 個人 (大字 重阪)
 (御所市教育委員会寄託資料)

草場権関係文書一括

御所市指定文化財第1号
名称:草場権関係文書一括(5点)
種類:歴史資料
所蔵:水平社博物館
指定年月日:平成9年3月25日
概要:
 「応永32年(1425)草場預ケ証文」は草場権関係文書としては奈良県最古の資料として知られる。頭欠文書であるが草場権の及ぶ範囲を地名とそこに所在する木、森、橋、山などを併記しつつ15箇所を掲げて示しており、応永32年正月21日にハカマが井ワサキ(岩崎村)の総三郎にその草場権を譲渡したことを示す証文となっている。
 草場権には斃牛馬処理権(*)、芝居興行十分一銭、社寺祭礼の際の出店からの芝銭徴収権、諸勧進権などが含まれていたが、それぞれの権利を行使できる範囲は、必ずしも草場とは合致しない場合もあることが分かっている。
 この応永32年文書のほか一括指定された草場権関係文書には「元禄15年(1702)草場売渡文書」「宝永5年(1708)草場売渡文書」「文政9年(1822)草場権控帳」「慶応元年(1865)草場取前丑枚高割帳」がある。
 これらは当時の被差別部落が有した特殊な権利である草場権の実態を知る上で重要である。

(*)斃牛馬処理権(へいぎゅうばしょりけん)=他の所有に係る牛馬が死亡した場合、その所有権が被差別部落に帰属するように変化するという権利

伏見八幡神社 本殿・摂社二棟

御所市指定文化財第2号
名称:伏見八幡神社 本殿・摂社二棟
種類:建造物
管理:大字伏見
指定年月日:平成15年6月1日
概要:
 大和盆地を南から見下ろす景勝の地にある。三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の本殿と一間社(いっけんしゃ)流造の摂社(せっしゃ)2棟が、本殿を中央にして一段高い基壇上に横一列に並び、群を成す社殿の景観を形成している。
 本殿の身舎(もや)は三間×一間で、木階(きざはし)を正面一間に配置するのみとするのは扉口(とびらぐち)が一口であったときの名残とみられ、内陣も一室で古式である。建物全体に極彩色を施しており、彩色・文様もかなり古式である。内陣からは棟札(むなふだ)が発見され、最も古いものは天正(てんしょう)4年(1575)と記される。なお、現行の正面扉の内側には鷹や花の日本画が描かれており、池田雅辰の銘がある。
 摂社天児屋根命(あめのこやねのみこと)神社本殿(右殿、向かって左)の身舎柱は面取角柱で、他の2社が円柱に対して簡素である。向拝の虹梁形頭貫(こうりょうがたのかしらぬき)先端の木鼻(きばな)の繰形(くりがた)、花や葉などの植物をあしらった彫刻木鼻、身舎組物を舟肘木(ふなひじき)とするのはいずれも大和の特徴といえ、古式である。
 摂社天照皇大(あまてらすおおみかみ)神社本殿(左殿、向かって右)は、肘木が禅宗様(ぜんしゅうよう)であること、向拝(ごはい)桁に反り増しがあること、木鼻に発達した絵様があることから、建立年代は右殿より少し下がる可能性がある。
 いずれにも後補(こうほ)は随所にみられるものの、安土桃山時代の社(やしろ)建築の特徴を残している。奈良県下においてはこの時期の遺構は稀で、意匠や細部様式の変遷を知りうる上でも貴重である。

鴨都波神社 本殿

御所市指定文化財第3号
名称:鴨都波神社 本殿
種類:建造物
管理:鴨都波神社
指定年月日:平成15年6月1日
概要:
 式内社に列せられ、歴史的にも著名な神社である。鴨宮(かものみや)とも称せられ、御所および近郷五か村の氏神として現在、尊崇され、葛城川上流の高鴨神社とならび称せられる。
 本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)・千鳥破風(ちどりはふ)をつけ、正面の庇である向拝(ごはい)の前面に向唐破風造(むこうからはふ)の祝詞屋(のりとや)ないし幣殿(へいでん)とみられる建物を、本殿と屋根を接続して配する。
 庇には浜縁を設けず土間とするのは古風であるが、向拝では肘木(ひじき)を二段に積み、上段肘木先端を木鼻(きばな)とする実肘木(さねひじき)付き組物で、絵様繰形(えようくりかた)にも時代の特徴がよく現れている。また、身舎(もや)は出組であるため、虹梁大瓶束笈(こうりょうおおびんつかおい)形式の妻が支輪によって持ち出される江戸時代後期の特色を、県下で珍しくとる。細部様式にしても随所に新鮮味のある、装飾的な要件を備え、軸部には粽(ちまき)を附け、大斗は皿斗付きの大仏様のものを用いる。
 建立年代は棟札(むなふだ)によって天保11年(1841)と明確で、作者は地元の大工と見られ、その時代の特色をよく現している。
 本殿の建築は他の社殿と結合するようなことは稀で、単独に存在するものが多い中で祝詞屋ないし幣殿の機能をもつ廊状(低い床を張るが土間の可能性もある)の建物を付加し、複合的な社殿である点は特記される。かつ、江戸時代を代表するような本殿の遺構は奈良県下では少なく、かつ千鳥・破風をつけた装飾的な本殿として、県下を代表する遺構である。

文政13年おかげ参り施行関係文書(29点)

御所市指定文化財第4号
名称:文政13年おかげ参り施行関係文書(29点)
種類:歴史資料
所蔵:御所市教育委員会
指定年月日:平成18年4月1日
概要:
 文政13年(1830)に起こった伊勢神宮への「おかげ参り」の際に、御所町の人々が施行した克明な記録と関連文書等である。
 閏(うるう)3月4日から9月8日までの間に9,729人が宿泊し、食事や風呂、翌日の昼食用握り飯や場合によれば路銀までも無償提供されている。施行(せぎょう)を受けた人々の出身地は、大隅・隠岐を除く全ての国の人に及ぶ。他のおかげ参りに関する文書と比較すると、他は個人が2,000人程度の人に施行しているのに対して、この文政13年文書によると、御所の町全体で全国の9,700人を超える人に対して施行しているという点で異例であり、規模が格段に大きいことに注目される。
 また、その他の特徴として、施行期間が長く、おかげ参りのほぼ始まりから終わりまでの記録があること、風呂の施行等、宿泊のみならず他の施行についても記されていること、施行のために寄進された金品や世話人の記録が充実していること、施行に対する礼の歌も残されていること、施行所に掲げられた木札(看板)も遺存していること、施行終了後の太々神楽(だいだいかぐら)や立山(たてやま)の記録まで存在すること、のちの嘉永元年(1848)に施行所跡地の一角に大神宮が建設された記録もあることなどを挙げることができ、おかげ参り関係の記録として、この文政13年文書ほど充実し、かつ、首尾一貫した内容の記録が残されている例は他になく、歴史資料として一級の資料である。

葛城山のギフチョウ

御所市指定文化財第5号
名称:葛城山のギフチョウ
種類:天然記念物
指定年月日:平成26年11月28日
概要:   
  ギフチョウは、アゲハチョウの仲間で日本にだけ生息する固有種である。翅を広げた大きさは5から6cmほどになる。形態に祖先的な形質を残すため「生きた化石」と言われ、また成虫が見られるのは春だけで、その美しい姿から「春の女神」とも呼ばれる。
  葛城山のギフチョウは、山頂付近に生息している。成虫はカタクリなどの蜜を吸い、幼虫の食草はミヤコアオイで、卵もその葉の裏に産み付けられる。他地域の個体に比べると雌が大きいという特徴があり、学術的にも貴重なものである。
 御所市ギフチョウの保護に関する条例(平成26年御所市条例第25号)では「禁止行為」として「採取等」(ギフチョウ及びその幼虫が食草とするミヤコアオイの採取、捕獲、殺傷及び損傷をいう。)および「放虫」(ギフチョウを野外へ人為的に放すことをいう。)の禁止を定め、違反者には5万円以下の罰金または過料に処す、としている。
 保護監視員にパトロールを委嘱しており、登山者の理解と協力を得て保護に努めていきたい。
 


    (ミヤコアオイ 渡辺康之氏撮影)

    (ギフチョウ 渡辺康之氏撮影)

 蛇穴の蛇曳き 汁掛け祭り

御所市指定文化財第6号
名称: 蛇穴の蛇曳き 汁掛け祭り
種類:無形民俗文化財
指定年月日:平成26年11月28日
概要:   
  この祭りは、田植え時期の5月5日に蛇穴の野口神社を中心にして行われている。五穀豊穣を祈り水を得るために龍神に祈願するお祭りで、藁で長さ10m以上もの大蛇が作られることが特徴である。この大蛇を、人々は蛇穴中を曳きまわし、各家の前で大きく揺さぶっては囃したてる。このような祭りを「野神行事」という。
  蛇穴に伝わる起源説話によれば、昔、役行者に恋をした娘が、その一念から蛇身に化けてその後を追ったが、これに驚いた村人が味噌汁をぶっかけたところ、蛇は穴に隠れたといわれている。以来、娘の供養にと大蛇を作ってお祭りをするのだが、以前は、祭りの見物人に味噌汁を掛ける風習があったそうだ。
  蛇穴の蛇曳き汁掛け祭りは、大和に伝わる野神行事の典型といえる内容を備えており、文献などからは少なくとも江戸時代以前から継承されていることが確実な行事である。このようなことから重要な民俗文化財といえる。



吉村虎太郎の襯衣(したぎ)(肌襦袢)

御所市指定文化財台帳資料 第7号

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御所市指定文化財第7号
名称:吉村虎太郎の襯衣(したぎ)(肌襦袢)
   附 徳富蘇峰 筆「吉村重郷 襯衣 盡忠報國」極め箱
種類:歴史資料
所有者:西尾 家(御所市教育委員会寄託資料)
指定年月日:平成29年3月1日
概要:
  吉村虎太郎は文久3年(1863)に勃発した天誅組の変で総裁を務めた。その肌襦袢とされるものが重阪の西尾家に伝えられている。これは高取城夜襲時に銃創を負った吉村虎太郎が西尾家で治療を受けた際に残されたものとされる。
 村井昌弘編『単騎要略 被甲辨』享保20年(1735)などの指南書では、当世具足の鎧下に着用する具足下着「襯衣(したぎ)」については「常の服を身の幅を少し狭く身の丈を少し短く仕立て直す。袖は筒袖にし胸に〔ボタン(衣偏に星)〕あり。」と記す。〔ボタン〕は胸がはだけるのを防ぐためである。その肌着「膚衣(はだぎ)」については「袖なしを佳とす」とある。これは肌着に袖があると具足下着の筒袖の下で捲れて不快な状態になるためである。
 当該肌襦袢では縫糸の残存により、元は広袖であったものを、あえて袖を外して無袖としていることが分かっている。これは当該肌襦袢が鎧下で、具足下着の肌着として用いられたことを示すものである。
 また白絹の掛衿の肌襦袢となっていることについても、通常は礼服・晴着として用いられるので、皇軍御先鋒出陣としての聖戦に臨む衣装として相応しい。
 背には「盡忠報國 土浪士 吉村重郷」と墨書されている。「土浪士」は土佐浪士、「重郷」は吉村虎太郎の諱である。「盡忠報國」については南宋の名将岳飛(1103から1142)が、出征に際して母により「盡忠報國」の刺青を背に入れられた故事が著名である。吉村は岳飛を標榜していた事が判っており、背の墨書はこれに倣ったものである。
 背の墨書についてはこのほか、「吉村重郷」という本人以外には俄には知り得ない諱の署名なども肯定する要素となろう。なお、『吉村虎太郎詩書』を所蔵する霊山歴史館の学芸員の方からは当該肌襦袢の墨書の筆跡について吉村虎太郎のものに間違いないとの評価も頂いている。
 以上により当該肌襦袢は、文久3年(1863)8月26日に、吉村虎太郎が高取城を夜襲しようとした際に、当世具足の鎧および具足下着の下に着用していたものであり、銃創の治療のために立ち寄るという偶発的経緯により西尾家に残されたもの、と認めてよいと考えられる。そして、その背に記された「盡忠報國」の墨書は天誅組決起時に、岳飛を標榜する吉村がその覚悟の程を記したもの、とみることができる。なお、専門機関に依頼した血液反応検査では、この肌襦袢には血液反応は認められないと鑑定された。各種状況からも吉村が被弾した箇所は内股と見られる。また、指定名の「襯衣」は、指南書において、鎧下に着る衣服としての具足下着「襯衣」と肌着「膚衣」とを併せて指す際にも用いられる特殊な用語である。
 【指定の理由】 「吉村虎太郎の襯衣(肌襦袢)」は、天誅組の高取城夜襲時の拠点となり、また、吉村虎太郎が銃創の治療のために一時滞在した重阪村の庄屋、西尾清右衛門宅に残されたものである。
 激動の時代を駆け抜けた傑出した人物の来歴明らかな遺品であるとともに、実際に鎧下に着用していた襯衣(肌着)の唯一の現存例としても貴重である。
 流麗な筆運びの「盡忠報國」の墨書とあわせて本件は、その時代の動勢と思想的背景を彷彿させる歴史資料として極めて重要である。

〇 附 徳富蘇峰 筆「吉村重郷 襯衣 盡忠報國」極め箱
 概要:
  西尾家において「吉村虎太郎の襯衣(肌襦袢)」を四分の一の大きさに折りたたんで保管するために設えられた桐箱の蓋甲と蓋裏にそれぞれ徳富蘇峰による箱書きがある。箱書きに昭和癸酉孟春とあることから蘇峰が西尾家を訪れたのは昭和8年(1933)早春であったことがわかる。日記など直接の記録はないが、この時期、蘇峰は『国民新聞』に天誅組のことなどを連載していたことから、訪れた可能性は十分にある。徳富蘇峰記念館の学芸員の方によれば、箱書きの字は「まさに蘇峰の筆使い」とされ、また、蘇峰の筆名で少し改まった際に使用する「菅(原)正敬」の署名も見えることから、蘇峰の箱書きに間違いないと見られる。箱書きの字は次の通りである。
 〈蓋甲〉盡忠報/國/昭和 癸酉 孟春/蘇峰菅正敬/恭倹
 〈蓋裏〉天誅組領袖土州/吉村重郷先生/血染襯衣須珎〔ころも(執に衣)〕/寶重云尓/昭和癸酉 孟春 蘇峰正敬 頌
 つまりこの箱書きは、西尾家を訪れた徳富蘇峰が真に「吉村虎太郎の襯衣(肌襦袢)」であることの極め(鑑定)をしたものである。蓋裏にみえる「襯衣」は指南書において鎧下に着る襯衣を指す特殊な用語であり、蘇峰はその方面にも造詣が深かったことを示している。また、蘇峰は傑出したオピニオンリーダーとして勤王の志士に関する言論活動を盛んに行っていたが、蓋裏には「吉村重郷先生」ともあり、吉村虎太郎に対する思い入れの強さも見て取れる。ちなみに蘇峰の生年は文久3年であり、それは偶然にも天誅組の変の勃発した年であった。
 こうした状況からすれば、「吉村虎太郎の襯衣(肌襦袢)」の極めをするのに相応しい人物は徳富蘇峰を置いて他にはいなかったであろうし、本人もそれを自認した上でのことであったに相違ない。蓋甲における「盡忠報國」の雄渾な筆致は、その自負の顕現したものといえる。
 なお、蓋裏の箱書きのうち「血染」については、既述の通り銃創の箇所は内股であったと考えられるので、誤解とみられる。
 【指定の理由】 西尾家において「吉村虎太郎の襯衣(肌襦袢)」を収めるために設えられた桐箱の蓋甲と蓋裏にそれぞれ、徳富蘇峰による箱書きがある。
 漢文調に格調高く箱書きのなされた極め箱であり、当時を代表する知識人の造詣の深さも示す歴史資料として極めて重要である。 

吉村虎太郎 襦袢
極め箱

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